筆者:野原 邦亮
本年3 月、経済産業省はファミリービジネスのガバナンスの在り方に関する研究会を立ち上げました。本研究会では、『ファミリーガバナンス規範』の公表に向けて検討が行われていますが、その背景には、本年2月に政府が公表した「中堅企業成⾧ビジョン」において、中堅企業の自律的な成⾧環境実現に向けた課題として「ガバナンス」が取り上げられていることなどが挙げられています。また、国内ではファミリーガバナンスについて取り上げる書籍や記事が最近増えていることもあり、世の中の興味や関心の高まりを感じます。
実際、Google で「ファミリーガバナンス」と検索すると、多種多様な顔ぶれがこの領域に関心を寄せていることが見て取れ、ファミリーガバナンスについての期待と関心の高さが伺えます。
そうした中、本研究会から『ファミリーガバナンス規範』が公表されることは、社会にファミリーガバナンスという考え方をより広く浸透させていくことに役立ち、そして正しい理解に基づいて、ガバナンスの課題に対処していく一助となることが期待されています。
しかしながら、そもそも「ガバナンス」という言葉の意味をどう捉えるのかは意外に難しい問題であり、とりわけ「ファミリーガバナンス」の定義は明確とは言えず、その本質を理解することはそう簡単なことではないように思われます。逆説的に言えば、本質の理解の難しさが、ファミリーガバナンスの普及を阻害するひとつの要因なのかもしれません。ファミリーガバナンスの本質の理解を深めていく上では、「ファミリーガバナンスは一体誰のため、何のために必要なのか」という根本的な問いから議論をスタートさせると同時に「企業とは誰のため、何のために存在するのか」を併せて問うことが必要ではないかと思います。このような根本的な問いと向き合うからこそ、企業の成⾧や永続を支える選択肢のひとつとして、ファミリーガバナンスを能動的に「選べる」ようになっていくのではないでしょうか。
本稿では、ファミリーガバナンスの本質とは何かを考えていくため、ファミリーガバナンスをクリティカルな視点で考えてみたいと思います。
ファミリーガバナンスは、ファミリー(ビジネス)の永続的な発展のための機能や仕組みと言えます。そのため、どうしても機能面でのファミリーガバナンスに注目が集まり、どういう機能や仕組みを整えるかばかりを考えてしまいがちです。ただ、機能面だけにフォーカスしガバナンスを設計・運営していくと、ガバナンスというシステムが十分に機能しない可能性があることには留意が必要です。
経済産業省のファミリービジネスのガバナンスの在り方に関する研究会の事務局説明資料では、ファミリーガバナンスは、「ファミリー等がファミリービジネスに関する意思決定を行う仕組みである」と説明されています。当然のことながら、ファミリーガバナンスはファミリーという人間を対象とした仕組みなわけです。
つまり、ファミリーガバナンスは人間の感情や人間関係の上に成り立つ仕組みであるため、本来はガバナンスと人間存在は密接につながっているものと言えます。人間存在の本質にも目を向け、人間と人間の関係性やありたい姿から、ガバナンスはどうあるべきかを設計していく視点も大切ではないでしょうか。
人間存在や人間の本性を考えていくのは、何もファミリーガバナンスに限ったことではありません。VUCA(先行きが不透明で将来の予測が困難な状態)の時代が恒常的に続く前提において、これからは世の中に確実なことなどほとんどない時代になると言えます。そうした中でも確実なことと言えば、「テクノロジーは進化していくこと。そして、人間は人間(的)であり続けること」だと思います。ゆえに、これからの組織やビジネスを考える上では、「人間らしさ」がどこにあり、「人間らしさ」とは何を守ることなのかを問わなくてはならなくなっています。
他方で、AI やライフサイエンスなど、科学・技術の急速な発展によって、人間の自由や尊厳が脅かされる場面も増えています。そうした中で、ヒューマニズムは「人間のための科学・技術」であるべきだという価値観を提供し、AI などの暴走を防ぐ道しるべとなります。テクノロジーの進展などに伴い、非人間化が進む現代社会において、人間を中心に据えた倫理・思想・行動の原理がまさに求められており、ガバナンスも人間を中心に据えて考えていく視点が大事となります。
ピーター・センゲは著書『学習する組織』の中で、真の学習は、「『人間であるとはどういうことか』ということの意味の核心に踏み込むものだ」と述べています。ファミリーガバナンスは、ファミリーを「学習する家族」に変容していくプロセスだとするならば、その旅は、人間であるとはどういうことかに向き合い続けていくことなのでしょう。ガバナンスは人間存在の未来と一緒に考えていくことで、より磨かれていくのではないでしょうか。
ファミリーガバナンスの中核的機能は、ファミリー等が公式な対話や議論の機会を通して意思決定を行うことです。ファミリーがより良い意思決定を行うためには、ファミリーが結束しながらも、常にお互いが対等の立場で本音を話し合える関係や状態を維持していくことが大事です。そのためには、ファミリーはどんなことがあっても対話を止めないことが肝要です。
しかしながら、逆説的ではありますが、ファミリーの関係が良好で、対立する価値観や問題がなければ、積極的に対話をする機会は(むしろ)自然と少なくなっていきます。さらに言えば、たとえば創業オーナーは、一族の中でも圧倒的な発言力があり、創業オーナーの意見や考えはそのままファミリー全体の意思になりがちです。それゆえ、家族が対等な立場でそれぞれが意見や考えを出し合い、家族全員の意思を形成していくような対話の機会を持っているファミリーは、決して多くはないと思われます。
したがって、私たち専門家がファミリーガバナンスを支援していこうとしたとき、留意しなければならない点としては、ファミリーが対話を止めない環境をいかに作っていくかだと思います。一族の永続は、いかに意見や価値観の違いを対話を通して乗り越えていく文化を育むことができるかが重要な課題です。対話の文化を醸成することは、ファミリーがピンチをチャンスに変える原動力となり、それが結果として永続的な発展に繋がっていくのだろうと思います。
しかし、私たち専門家の多くは、クライアントの問題・課題に対して、何らかのツールを使って迅速かつ適切に問題を解決しようと試みます。クライアントの問題や悩みに寄り添い、適切に解決することは、専門家としてクライアントから期待されていることでもあります。問題を解決することは決して悪いことではありません。ただ、ファミリーガバナンスを支援する上では、足元の問題・課題を何でも解決しようとし、不安がない状態にしておくことが本当に良いことなのかを問わなければなりません。ときには、問題を抱き抱えながら、リスクと不安と不確実さとが共存しながらもファミリーが歩んでいく方が、結果として良い状態をもたらすこともあります。なぜなら、不安や問題を抱き抱えているときの方が、ファミリーの対話が促され、より良い選択肢を見出す可能性が高まると考えるからです。
哲学者のリチャード・ローティは、著書『偶然性・アイロニー・連帯』の中で、「伝統的な哲学とは『真理を探求するもの』とされています。哲学者たちは真理を追い求め、真理に到達することを目指してきました。
到達を目指すということは、言い換えれば、いつか探求が終われば、それ以上の議論や会話が不要になります。」と従来の哲学者の役割をクリティカルに捉えています。ローティは、哲学者が真理を探求すると、人びとから対話を奪ってしまうことから、哲学者は対話をどう継続させるかを問わなければならないと考えています。それは、私たち専門家においても自覚すべきことかもしれません。私たちがいつも解決策を用意し、問題に対して結論や答えを綺麗に出そうとし過ぎることは、結果としてクライアントである一族が対話をし、自ら考え続ける機会を奪うことで、一族が困難な課題を乗り越えていく力を奪ってしまっているのではないか、という問題意識を片方でもっておくべきではないでしょうか。
私たちは正解がない時代を生きています。したがって、容易に答えが出せるものは本当のところ少ないはずです。ということは、ポジティブケイパビリティ(行動し、意思決定し、素早く問題を解決する能力)だけを発揮していると、⾧い目でうまくいかない状態をつくり出してしまう可能性を高めます。ファミリーガバナンスのように、超⾧期の視点で向き合うことが求められるようなケースでは特に留意が必要です。ポジティブケイパビリティとネガティブケイパビリティ(答えのない状況に耐え、受け入れる能力)をどう両立させていくか。より良い状態を作り、より良い選択肢を手に入れるため、敢えて答えを急がない勇気を持つことは、未来の可能性を広げてくれるはずです。
私たち専門家がファミリーガバナンスを支援していく上では、常に問題を解決する役割ではなく、ときにはファミリーが不安や問題を抱き抱えながら歩んでいける状態を作り、それを温かく見守る。そして、一族が対等な関係で生成的な対話ができる状態を支援していくことも大切ではないでしょうか。
ファミリーガバナンスは、ファミリー等がファミリービジネスに関する意思決定を行う仕組みでもありますが、その意思決定には、2つの原理的な問いが生じます。まず一つが、その意思決定はすべての成員の共通利益なのかどうかということ。もう一つが、ファミリーで決めた意思決定の正当性はどこから来るのかということです。
この原理的な問いを解くために、西洋近代の民主主義の基本設計にまで遡って考えてみたいと思います。
近代民主主義の原点は「社会契約」の原理が基盤となっていますが、その中で哲学者ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』を手掛かりに考えてみます。
『社会契約論』の冒頭近くに、次の有名な一節があります。
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上に奴隷なのだ。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。」
ルソーは国家における正当性はどこからくるのかを社会契約論の中で説いているわけですが、ここでは国家をファミリーという共同体に置き換えて考えてみたいと思います。
共同体の人びとが「対等なメンバーとして、皆の共通の利益を配慮し合おう」という約束のことを社会契約と言いますが、共同体の正当性の根っこには社会契約があります。その前提を踏まえ、共同体の意思決定の正当性の原理はgeneral will、つまり一般意志であり、それは皆が欲する利益、つまりすべての成員の共通利益のことです。一般意志が共同体で形成されていることが共同体の正当性の原理になるというわけです。
ただ、一般意志は多数決と同じではない点が重要です。最終的に投票など多数決で決めることはありますが、それはあくまで決めるための手段です。なぜこれが大事なのかと言えば、多数決さえとれば正当だということになれば、多数派工作をすれば良いことになります。多数派工作をして、多数決で勝ち取った一般意志に対して、少数派はどう思うでしょうか?少数派は意思決定を自分事としなくなり、当事者意識が出てこなくなりますから、分断や対立の原因となります。一般意志を形成していく上で大事なことは、少数派の声が他の成員たちから聴かれ、配慮されることが必要です。不利益を被る少数派にも耳を傾け、少数派も共同体によって承認されているという感覚が保たれることが重要です。
ではどうすればそうした感覚を保つことができるのでしょうか。その一つの鍵は、共同体的な感情的能力(ピティエ)が必要だと、社会学者の宮台真司氏は述べています。意思決定にあたって、決定者が各人に何をもたらすのか①想像でき、②気に掛かること。この感度があれば、意思決定が一般意志に近づくと考えられます。要は、常に共同体の成員同士が、お互いのことが気に掛かり、お互いのことを想像する状態が保たれれば、ファミリーが下す意思決定は、すべての成員の共通利益になり、共同体の正当性の原理になるということです。
ルソーが目指したのは、共同体の成員同士が対等な関係で、お互いに自由であることです。家族であれば、お互いを対等で自由な存在として尊重することは可能だと思います。ただ、核家族化が進む中で、たとえば従兄弟同士が、常にお互いのことが気に掛かり、お互いのことを想像する状態は自然には生まれづらくなっているのではないでしょうか。ファミリーガバナンスを導入し、ファミリーの意思決定の仕組みを導入することは、ファミリーの価値を高めていく上でも大変重要な取り組みです。ただ本質的には、その意思決定が一般意志に近づく状態をどうつくり出し、保っていくかが問われているのではないでしょうか。
今回はファミリーガバナンスをクリティカルな視点で捉えることで、その本質とは何かを考えてみました。
勿論、すべての論点を挙げて、本質とは何かを追求したわけではありませんが、確かなことは、ファミリーガバナンスは「プロセス」だということです。
永続に向けたプロセスだと考えると、決してファミリーガバナンス(という仕組み)を導入しただけで何かが変わることはないのでしょう。そのプロセスをつくり出す強い意思が、世代を超えてファミリーに受け継がれなければ、本質的な価値を生み出していくことは難しいのかもしれません。
経済産業省の研究会が立ち上がり、ファミリーガバナンスへの関心や、それに伴う社会的ニーズがこれからますます高まっていくことが予想されます。それゆえ、ファミリーガバナンスの導入をこれから検討するファミリーが増えてくることで、プロセスの出発点となる「問い」に出会うファミリーが増えてくるものと考えます。それは、フランス人画家ポール・ゴーギャンの作品である『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』です。この問いをファミリーで考え続けるプロセスが、ファミリーガバナンスを機能させ、一族と企業の永続的な発展を支える原動力になるのではないでしょうか。
私たちあいわ税理士法人は、ファミリーガバナンスが日本で豊かに、そしてより実質的なものとして発展していくために、これからも様々な活動を展開して参ります。